2011年12月12日月曜日

光明皇太后の一周忌の記事

巻廿三 天平宝字五年六月庚申甲寅朔設皇太后周忌齋於阿弥陀淨土院其院者在法華寺内西南隅爲設忌齋所造也其天下諸國各於國分尼寺奉造阿弥陀丈六像一躯脇侍菩薩像二躯

巻廿三
天平宝字五年六月七日。
庚申。甲寅の朔。
皇太后の周忌齋を阿弥陀淨土院に設く
其の院は法華寺内の西南隅に在り
忌齋を設くるが爲に造れる也。
其れ天下諸國の各々の國分尼寺に於て、
阿弥陀の丈六像一躯、脇侍の菩薩像二躯を造り奉らしむ


天平宝字五年六月
辛酉於山階寺毎年皇太后忌日講梵網經捨京南田卌町以供其用又捨田十町於法華寺毎年始自忌日一七日間請僧十人礼拜阿弥陀佛 

天平宝字五年六月八日。

山階寺に於て毎年皇太后の忌日に梵網經を講ぜしむ。
京南の田町を喜捨し以って其用に供す
又、田十町を喜捨して法華寺に於て
毎年始、忌日より一七日間、
僧十人を請い阿弥陀佛を礼拜せしむ。 


六月七日が崩じた日である。忌日。
天平宝字四年六月乙丑己未朔(六月七日)天平應眞仁正皇太后崩。

周忌の齋会式を阿弥陀淨土院に設けたこと。

その院は
法華寺内の西南隅に在ったこと。

それは「
忌齋を設くるが爲に造れる」だということ。

普通に読めば、一周忌の斎会の機会に
阿弥陀淨土院を造営し斎会を整えた、と解される。
だが仮設の院ではないと思われるし、法華寺が光明子が不比等から受け継いだものであるとすれば光明子の生前からあった建物を阿弥陀浄土院として荘厳したと考えたらどうだろうか。
そのほうが故人との関係で自然な有り様と思うのだが。

諸国の国分尼寺に丈六の阿弥陀三尊(阿弥陀と脇侍の二菩薩)像を作らせることについては
各地で造佛できる条件があったか。できる土地柄の処もあったろうし、できない土地柄ならば制作は都で行って輸送したのだろう。後者が多かったのではないのだろうか?

山階寺は興福寺である。
「梵網經を講じる」「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」のことか。菩薩戒を説くので女人にも功徳ありとの意図か?
梵網經は二種類あって小乗仏教の梵網經は外道批判などが入っている。多分大乗仏典の方だろう。

喜捨というのはここでは何を指しているのだろう。

国家による施入か?

阿弥陀浄土院が皇太后の斎会の機関として整えられていくこと。
それは間違いない。


葬祭の面から見た皇后・皇太后の扱いは細かく観察し読み込むことも勉強になるかと思う。


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2011年12月2日金曜日

隼人を朝堂に饗す、其の儀常のごとし

乙巳饗大隅薩摩隼人等於朝堂其儀如常天皇御閤門而臨観詔進階賜物各有差


延暦二年(七八三)正月乙巳(廿八日)
饗大隅薩摩隼人等於朝堂。

其儀如常。
天皇御閤門而臨観。
詔進階賜物各有差。

乙巳(廿八日)
大隅・薩摩の隼人等を朝堂に於て饗す。
其儀は常の如し。
天皇、閤門に御して臨観す。
詔して階を進め物を賜うこと各々差有り。


七八三年一月廿八日
正月の行事の最後を飾る儀式として行われたのだろうか。
大隅、薩摩、両地域の隼人を参内させて饗したのである。

儀式に参加して呪声等の役目を果たす上番隼人ではなく
両地域の官位をもつ族長たちであろう。


この記事で気になるのは順序だ。
朝堂に饗したと記して其の儀は常のごとしと言う。
天皇閤門に御して臨観すというのがその後か?
進階賜物は何時なのか。


進階賜物のことは追記的に補足されるので問題ない。
進階賜物は饗に先後に行われるものだろう。
問題は
天皇閤門に御して臨観す が
何時なのか?


饗に先だっての儀式としておこなわれたものか。
そのとき天皇は閣門に出御してその儀式の様子を臨み観(み)たことになるのだが。
そしてそれを
其儀は常の如し と評価(報告)している。


隼人たちは閣門に御す天皇の前で何かの儀礼を行って
それを天皇が観ることに意義があったのだ。
臨観すという言葉にその有意義さが表明されている。


それはどのようなものだったか。
わからない。
隼人舞いのような芸能性を帯びたものか。
異人的武装と吠声のような呪性を帯びたものか。
あるいはまた別の種類のものか。


ただそれが特記に値しない通常のものと見なされたから
其の儀は常のごとしと記されたのだろう。


大伴旅人が征旅についた時代から時を経て隼人の社会も
律令制度の中に定着してきているということの
これは証ではあるだろうと思う。


宿題:
聖武天皇が恭仁京建設のさなか泉川(木津川)の南岸で校猟を観たという記事を思い出した。
天皇が観るという行為をしている場面とそれを観という字で表記することの意味はどのようなものか。
ここでも天皇は「閣門」という定められた(選定された?)場所へ御して観ている。


校猟を観るというのも定まった場所から観たのでなけらば見えないはずだ。
観ることに意義があるのなら見えない場所には御しはしない。


観という字(漢語)はどう使われているのか。
俯瞰的に観ることが含まれていないか。
そのことが気になっている。
国見という行事もまた俯瞰的だからだ。



2011年11月9日水曜日

秋篠という土地

癸夘。
少内記正八位上土師宿祢安人等言。
臣等遠祖野見宿祢。造作物象。以代殉人。垂裕後昆。生民頼之。
而其後子孫。動預凶儀。尋念祖業。意不在茲。
是以土師宿祢古人等。前年因居地名。改姓菅原。
當時安人任在遠國。不及預例。
望請。土師之字改爲秋篠。
詔許之。
於是。安人兄弟男女六人賜姓秋篠。


延暦元年(七八二)五月 癸夘(廿一日)。
少内記 正八位上 土師宿祢安人らの 言上するに(曰く)
臣等が遠祖 野見宿祢、物象を造作し、以って殉人に代う。裕ろく後に昆を垂れ、生民之を頼る。
而るに其の後は子孫 動やく凶儀に預れり。尋く祖業を念えば 意は茲に不在るなり。
是を以って 土師宿祢 古人ら  前つ年 居地の名に因って姓を菅原と改めき。
當時 安人 任じて遠國に在り。預例に不及りき。
望み請うらくは。土師之字を改めて秋篠と爲さん、と。
詔して之を許す。
是に 安人 兄弟 男女 六人に秋篠の姓を賜う。


桓武の時代が始まったころ。
土師宿祢古人ら同氏族の者に遅れて安人は改姓を願い出て許された。
土師氏はここに居住地をもとに名乗った菅原と秋篠に別れた。
といっても奈良市にある秋篠の地と菅原の地はほとんど同じ地である。
隣接というより同一と言っていいくらいだ。
そのことは同一の地域に暮らす同じ氏族の分岐が既成事実だったことを示すように思われる。
安人は菅原という姓でもよい筈だろうから。しかし敢えて秋篠姓を願った。
ここに「家」の独立があるのだろう。そこにその「家」の政治的・経済的等の差異がもたらす分岐がみえる。


任地が離れていて「預例に及ばざりき」は口実の類であろう。
古人たちの家が猟姓運動に成功したとき彼の家は置き去りになった。
というより同姓の古人たちから別扱いされていたのであろう。
確かに任地遠国であれば運動に参加は出来かねたのは確かだとしても。


ここに表れているもう一つの問題は
土師氏という呼称が負のベクトルを帯びるものに変わってしまったことである。
もともと古墳の造営にかかわることは光栄に満ちた家業であったはずであり
それが野見宿祢の伝承とともに土師氏の存在を支えてきた。
しかし王権の継承に関わる重大な事業としての墳丘造営の意義が失われ
律令制の下で土師氏の家業は葬送を凶事とする思想に取り囲まれてしまっていた。
祖先の功業をひそかに誇りつつも家業はすでに技術官から文官へと変わっていた。
改姓の時機はとうに来ていたが、なかなか実現しなかったのであろう。


現在の秋篠の地名が賜姓により生じたかというとそうではないだろう。
宝亀十一年(780年)六月戊戌(五日)に秋篠寺の名が続日本紀にある以上、その土地の名を姓としたと考えるべきだから。


秋篠寺は林に囲まれたような静かな寺である。
秋篠宮も自らの呼称の由来を尋ねて来訪している。
伎芸天の周りに漂う視えない音楽を感じられる立ち位置を
探して見つけた日を懐かしく思い出す。

2011年10月18日火曜日

文武元年(六九七)十月壬午
《甲子朔十九》 冬十月壬午。陸奥蝦夷貢方物。
陸奥の蝦夷、方物を貢す。 

文武元年(六九七)十二月庚辰
《癸亥朔十八》 十二月庚辰。賜越後蝦狄物。各有差。
 越後の蝦狄に物を賜うこと、各々差有り。

 文武二年(六九八)六月壬寅
《十四》 壬寅。越後國蝦狄獻方物。
 越後國の蝦狄、方物を献ず。 

文武二年(六九八)十月己酉
《廿三》 己酉。陸奥蝦夷獻方物。
陸奥の蝦夷、方物を獻ず。 

文武三年(六九九)四月己酉
《乙酉朔廿五》。 夏四月己酉。越後蝦狄一百六人賜爵有差。
越後の蝦狄一百六人に爵を賜うこと差有り。 

和銅三年(七一〇)正月丁夘
《十六》 丁夘。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人蝦夷。 奏諸方樂。
天皇、重閣門に御して、文武百官并びに隼人、蝦夷に宴を賜う。 諸々の方樂を奏す。

 從五位已上賜衣一襲。 隼人蝦夷等亦授位賜祿。各有差。
從五位已上に衣一襲を賜う。 隼人、蝦夷等に亦た位を授け祿を賜うこと各々差有り。

和銅三年(七一〇)四月辛丑
《廿一》 辛丑。陸奥蝦夷等請賜君姓同於編戸。許之。
陸奥の蝦夷等、君姓を賜わり編戸を同にせんことを請う。之を許す。 

天平宝字元年(七五七)三月乙亥
《廿七》 乙亥。勅。自今以後。改藤原部姓。爲久須波良部。君子部爲吉美侯部。
 勅。今自り以後、藤原部の姓を改めて久須波良部と爲し、君子部は吉美侯部と爲す。 

神亀元年(七二四)二月壬子
《廿二》 壬子。天皇臨軒。授正四位下六人部王正四位上。 (中略)從七位下大伴直南淵麻呂。從八位下錦部安麻呂。无位烏安麻呂。外從七位上角山君内麻呂。外從八位下大伴直國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊。外從七位上香取連五百嶋。外正八位下大生部直三穗麻呂。外從八位上君子部立花。外正八位上史部虫麻呂。外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下。

天皇臨軒。正四位下の六人部王に正四位上を授く。(中略))從七位下大伴直南淵麻呂。從八位下錦部安麻呂。无位烏安麻呂。外從七位上角山君内麻呂。外從八位下大伴直國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊。外從七位上香取連五百嶋。外正八位下大生部直三穗麻呂。外從八位上君子部立花。外正八位上史部虫麻呂。外從八位上大伴直宮足等は陸奧國鎭所に私穀を獻ず。並びて外從五位下を授く。



2011年9月27日火曜日

白猪屯倉と白猪史胆津 船史王辰爾の周辺

三年冬十月戊子朔丙申 遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。
戊戌 詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。


遣蘇我馬子大臣 於吉備国 増益白猪屯倉与田部 即 以田部名籍 授于白猪史胆津。
蘇我馬子大臣を 吉備国に遣して 白猪屯倉と田部を 増益す。即ち 田部の名籍を以て 白猪史胆津に授く。


記事の内容は蘇我馬子と白猪史胆津を吉備の国の白猪屯倉に派遣したが、それはそこにある田部を「名籍」を使って増益するのが狙いだったというのだ。
これを記録としてでなく伝承としてとらえれば、
取り仕切った責任者は蘇我氏の馬子、執行責任者は帰化人の白猪史の胆津。
増益の手段は「名籍」。これは田籍を意味するのだろう。
計測と記帳による農産管理。マネジメントが導入されたのであり、文字の役割が拡大されたことでもある。
土木治水のことも含まれていよう。


白猪屯倉のもつ意味は政治的経済的軍事的拠点であろうが、そこを帰化人技術官僚を握った新興の蘇我氏が掌握したことをも示しているのだろうか。


この記事は大阪平野の河内との関連でもまた出てくるはずだ、記憶違いでなければ。


同じ頃に
詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。
詔して、船の史(ふひと)王辰爾の弟、牛に姓(かばね)を津史(つのふひと)と賜ふ。


賜姓は事実かどうかは不明だが、「王」氏が「船首の王」氏となり「津史」氏という職務に合致した称号を得たことは上記の白猪史と並び文書を軸にマネジメントする事務が必須とされる状況を示しているだろう。
出土した墓誌銘に「船首王後」とあり、船首(ふねのおびと)の「王後」と読んだのだろう。


白猪史は王辰爾の兄である王味沙が初めとされ、胆津はその子である。
王辰爾は船史、兄の王味沙の子、胆津は白猪史、弟の王牛(?)は津史。一族が経済の根幹の事務についている。
この前後する二つの記事を繋ぐのは帰化人氏族王氏である。どちらも同じ家伝から採られているとみてよい。


王辰爾については有名な伝承がある。
敏達元年夏五月紀
丙 辰 天皇執高麗表疏 授於大臣 召聚諸史令読解之 是時諸史於三日内皆不能読 爰有船史祖王辰爾 能奉読釈 由是 天皇与大臣倶為讃美曰 勤乎辰爾 懿哉 辰爾 汝若不愛於学誰 能読解 宜従今始近侍殿中 既而詔東西諸史曰 汝等所習之業何故不就汝等雖衆不及辰爾 又高麗上表疏書于烏羽 字随羽黒既無識者 辰爾乃蒸羽於飯気以帛印 羽 悉写其字 朝庭悉之異

2011年9月3日土曜日

続日本紀巻第一から新期講読始まる

文武元年(六九七)八月癸未。
以藤原朝臣宮子娘為夫人。紀朝臣竈門娘。石川朝臣刀子娘為妃。


八月廿日。藤原朝臣宮子娘を以て夫人と為す。紀朝臣竈門娘、石川朝臣刀子娘は妃と為す。
「娘」はどう読むのか。 竈門はカマドと読むのだろう。刀子は?「トウス」ではあるまい。


文武元年(六九七)八月壬辰。
賜王親及五位已上食封各有差。


八月廿九日。王親及び五位已上に食封を賜ること各々差有り。
食封の記事である。


文武元年(六九七)九月丙申。
京人大神大網造百足家生嘉稲。近江国献白鼈。丹波国献白鹿。


九月三日。京の人、大神大網造(おおみわのおおよさみのみやつこ?)百足が家に嘉稲生ず。
近江国より白鼈を献ず。丹波国より白鹿を献ず。


文武元年(六九七)九月壬寅。
賜勤大壱丸部臣君手直広壱。壬申之功臣也。


勤大壱丸部臣君手に直広壱を賜う。壬申の功臣なり。


文武元年(六九七)冬十月壬午。
陸奥蝦夷貢方物。


陸奥の蝦夷、方物を貢す。


文武元年(六九七)十月辛卯。
新羅使一吉飡金弼徳。副使奈麻金任想等来朝。


新羅使、一吉飡の金弼徳。副使、奈麻の金任想たち来朝す。


文武元年(六九七)十一月癸卯。
遣務広肆坂本朝臣鹿田。進大壱大倭忌寸五百足於陸路。務広肆土師宿禰大麻呂。進広参習宜連諸国於海路。以迎新羅使于筑紫。


務広肆の坂本朝臣鹿田。進大壱の大倭忌寸五百足を陸路より務広肆の土師宿禰大麻呂。進広参の習宜連諸国を海路より遣わして新羅使を筑紫に迎えしむ。


文武元年(六九七)十二月庚辰。
賜越後蝦狄物。各有差。


越後の蝦狄に物を賜うこと各差あり。

2011年8月3日水曜日

雄略紀 三年夏四月 「栲幡皇女の怪死」記事

三年夏四月阿閉臣国見更名磯特牛譖栲幡皇女与湯人廬城部連武彦曰武彦汗皇女而使任身湯人此云臾衛武彦之父枳莒喩聞此流言恐禍及身誘率武彦於廬城河偽使鸕鶿没水捕魚因其不意而打殺之天皇聞遣使者案問皇女皇女対言妾不識也俄而皇女齎持神鏡詣於五十鈴河上伺人不行埋鏡経死天皇疑皇女不在恒使闇夜東西求覓乃於河上虹見如蛇四五丈者掘虹起処而獲神鏡移行未遠得皇女屍割而観之腹中有物如水水中有石枳莒喩由斯得雪子罪還悔殺子報殺国見逃匿石上神宮


三年の夏四月、阿閉臣(あへのおみ)国見(くにみ)栲幡皇女(たくはたひめ)と湯人(ゆえ)の廬城部連(いほきべのむらじ)武彦(たけひこ)を譖(そし)りて曰く、「武彦、皇女を汚して 使任身 (文字通りなら使が身を任した、の意。しかし使皇女任其身で皇女をしてその身を任せしむ、と言いたいのだろう。任身を妊娠の誤写と見るのは早計と思う) 身を任せしむ」
湯人此れをユエと云う。
武彦之父たりし枳莒喩(キコユ)此の流言を聞く。禍ひ身に及ばむことを恐れて
武彦を廬城河に誘率(いざな)ひき。
偽りて鸕鶿をして水に没せしめ捕魚せしめんとす。
其れに因って、不意而打殺之(普通なら打之而殺だろう。「うちころしぬ」の直訳か)(不意を襲ってうち殺した)


偽+使(鸕鶿没水捕魚)因+其不意而打殺之
小学館本では古訓を使っているが文の形式が他の箇所と類似するのでそれに従うほうが正しいだろう。




天皇、聞きて使者を遣し皇女を案(かむが)へ問はしむに、皇女対へて言はく、妾(われ)は識らずと。
俄(にはか)にし而、皇女神鏡を齎(と)り持ちて五十鈴河の上(ほとり)に詣(いた)りぬ。人の往行くことなきを伺(たしかめ)て鏡を埋め、経(わな)きて死せり。
天皇、皇女の不在(いまさざる)を疑(いぶかし)みて恒(つねに:ずーっと)闇夜に東西し求め覓ぐこと使(せし)む。


恒使闇夜東西求覓は恒+使(東西+求+覓)という構成と解するのがいい。東西は動詞で「東西する」(あちこちと歩き回る)だろう。「とさまかくさまもとめまぎし」を直訳したのだろう。使は「させた」、恒は「見つかるまで」を含意した「ツネニ」だろう。
恒は「普く」とも読むのでこれを採るほうがいい。恒使:普く~させた:であろう。


乃、於河上、虹見如蛇四五丈者、掘虹起処而獲神鏡
乃(すなはち)於河上(河のほとりに)虹見(あらは)る。蛇の四五丈なる者の如し。虹の起ちし処を掘り而神鏡を獲たり。
乃は口語的、説話的な語法という趣が強い。そうして、そのつぎに、そんなわけで、などなど。皇女を発見する前に鏡を発見するという筋立てはこの語りが鏡に主点のあった説話だということを示唆しているようだ。剣でなく鏡だというのも注目しておきたい。


移行未遠得皇女屍
移而行未遠得皇女屍:移り行くに未だ遠からずして皇女の屍を得たり。
「移りて行く」は鏡の発見場所からの移行だ。ほど遠からずして皇女の屍を見つけた。


割而観之腹中有物如水水中有石
割(さ)きて之れを観れば腹中に物の有ること水の如く、水中に石有りき。
この記事の文の特徴だが、文末が次の文の文頭となってもおかしくない形が見受けられる。
ここでも前の文末の「皇女屍」を置いて
皇女屍割而観之、腹中有物。でちゃんとした文になる。
皇女の屍を割きて観れば、腹中に物有りき。
そうすると
腹中有物如水水中有石:が腹中有物如水。水中有石。ではなくて
腹中有物、如水中有石。と区切るべきで、水水は重複と見做せる。
腹を割いて観ると物が有ってまるで水中に石があるような様子であった、ということで
水のような物が有って、その水の中に石が有った、という分かったような分からない文にはならない。
謂うところは羊水の中に「石」が有った、というのだ。胆石、尿石などと同様あり得ない話ではない。
文脈上は妊娠を疑われて自殺?して、死後腹を割かれるという残酷、しかも冤罪というわけで、
雄略天皇(このころは大王と書いたはずだが)の残虐を表現する素材として機能しているわけだ。


枳莒喩由斯得雪子罪還悔殺子報殺国見逃匿石上神宮
枳莒喩、斯れに由って子の罪を雪ぐことを得(う)。還って子を殺せしことを悔ひて、国見に報ひて殺さむとす。(国見)逃げ石上神宮に匿る。
ここも上の条と同じように国見は悔殺子報殺国見と国見逃匿石上神宮とどちらにも属すかのようだ。
こういう記述法は何か理由があるはずだ。
漢文として不自然なところのある記事として掘り下げてみたい問題をはらんでいると思うがどうか。




全体としても奇怪な記事だ。事実が含まれているのかどうかも怪しむべき内容だ。
いくつもの階層を区別してそれぞれへのアプローチを考えなくてはいけない記事だろう。


雄略が「大悪」と言われたという記事の直後のこういう記事だから、まずは「大悪」の行為を例示することを意図したものという視点が可能だ。


後続で「有徳」な雄略も出てきて、善悪の記述が混在している。
記事では皇女の屍を割いているのが誰か、命令したか否かも不明だが、
文脈的に天皇の関与のもとで起きたこととされていることは確かだ。


この記事の第一層は「雄略の行状記」という意味を帯びている。


次に、阿閉臣と廬城部連という対立で語られる層だ。
ヤマト、イガ、イセという地域性の問題か
在地在来豪族(臣)と中央直結勢力との対立の問題か。


天皇と斎宮という軸での懐疑と結末という物語形式という視点もある。


神鏡を神(あや)しき鏡と読む読み方も考えておくべきだろう。


鏡の埋納と虹=蛇としての出見(出現)という場面。
闇夜東西云々にもみられる漢文としての不備破綻らしき様相。


表現として重複矛盾する表現もある意味を帯びているように感じられる。
怪しいのは皇女のみでなく記事全体が謎めいているのだ。


シコトヒを磯城の磯(シ)+特牛(コトヒ)でシコトヒと読ませているのは
仮に白特牛ならシロコトヒと読め「白い+特牛」と理解されるが
磯特牛はシコトヒという発音を表すために磯と特牛を引いてきたのが明らかだ。
ではシコトヒとは何を表しているのか。


これはシコ(醜:しこ)+コト(言:こと)+ヒ(云:いひ)という構成なのだ。
シココトイヒ(醜言云ひ)―> シコトヒ(磯特牛)となっている。
伝承の担い手からこう呼ばれることになったのが「更名磯特牛」という形で採られたのである。
「告げ口野郎」「モッキングバード」という響きを伝えているのであろう。

2011年7月12日火曜日

古代の典籍の史料

此府人物殷繁天下之一都會也。子弟之徒學者稍衆…
巻卅 神護景雲三年十月十日 甲辰。 西暦七六九年


從五位上奈癸王爲正親正。


大宰府言。此府人物殷繁。天下之一都會也。子弟之徒。學者稍衆。而府庫但蓄五經。未有三史正本。渉獵之人。其道不廣。伏乞。列代諸史。各給一本。傳習管内。以興學業。詔賜史記。漢書。後漢書。三國志。晋書各一部。


讃岐國香川郡人秦勝倉下等五十二人賜姓秦原公。




從五位上、奈癸王を正親の正と爲す。


大宰府言す。此の府は人物殷繁にして天下之一都會也。子弟之徒は學べる者稍く衆し。而るに府庫は但だ五經を蓄うるのみ。未だ三史の正本を有さず。渉獵せる人、其の道廣からず。伏して乞う。列代の諸史各々一本を給わらば、管内に傳習して以って學業を興すべし。詔して史記、漢書、後漢書、三國志、晋書、各一部を賜う。


讃岐國香川郡の人、秦勝倉下(はたのすぐりくらじ)等五十二人に秦原公の姓を賜う。



天平宝字四年(七六〇)正月十六日    從五位下奈癸王爲内礼正。
神護景雲三年(七六九)十月十日     從五位上奈癸王爲正親正。
宝亀元年(七七〇)八月四日        從五位上奈癸王爲作山陵司。
宝亀二年(七七一)閏三月一日       正五位下奈癸王爲伯耆守。
宝亀二年(七七一)十一月廿五日     正五位下奈癸王正五位上。
宝亀三年(七七二)七月九日        正五位上奈癸王等。監護喪事。
宝亀四年(七七三)正月己巳        授正五位上奈癸王從四位下。
奈癸王は作山陵司と監護喪事と二度葬送儀礼に関与しているが
伯耆の守以外の官職の記事がみえない。
天平宝字元年(七五七)七月庚戌《四》 賀茂角足請高麗福信。奈貴王。
坂上苅田麻呂。巨勢苗麻呂。牡鹿嶋足。 … 於是。一皆下獄。
天平宝字八年(七六四)正月乙巳《己亥朔七》 從五位下奈貴王從五位上。
神護景雲元年(七六七)二月戊申《廿八》 從五位上奈貴王爲大膳大夫。
宝亀九年(七七八)二月乙酉《八》 侍從從四位下奈貴王卒。


奈貴王は奈癸王と同一人物らしい。とすると奈良麻呂の「乱」に連座していたことになる。だが参加したとは言えない程度の関わりだったのだろう。卒伝はない。伯耆国や石見に関わった官職以外は内向きの仕事をしている。



大宰府言す。此の府は人物殷繁にして天下之一都會也。子弟之徒は學べる者稍く衆し。而るに府庫は但だ五經を蓄うるのみ。未だ三史の正本を有さず。渉獵せる人、其の道廣からず。伏して乞う。列代の諸史各々一本を給わらば、管内に傳習して以って學業を興すべし。詔して史記、漢書、後漢書、三國志、晋書、各一部を賜う。


当時に史記、漢書、後漢書、三國志、晋書が存在したことが分かる。また大宰府内の人々が五経に加えて史書を学ぶことに熱心であったことが分かる。外国との接点の役目も負っていた大宰府の官人層は子弟にしっかりとした教育を与えることを重視していたのだろう。



讃岐國香川郡の人、秦勝倉下(はたのすぐりくらじ)等五十二人に秦原公の姓を賜う。


広範囲に分布する秦氏のもとに居た勝で秦勝という人々が秦原公という姓を許された記事。

2011年6月23日木曜日

多発地震の記事

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五月戊午朔。地震
己未。地震。令京師諸寺限一七日轉讀最勝王經。筑前。筑後。豊前。豊後。肥前。肥後。日向七國。无姓人等賜所願姓。▼是日。太政官召諸司官人等問。以何處爲京。皆言。可都平城。
庚申。地震。」遣造宮輔從四位下秦公嶋麻呂。令掃除恭仁宮。
辛酉。地震。」遣大膳大夫正四位下栗栖王於平城藥師寺。請集四大寺衆僧。問以何處爲京。僉曰。可以平城爲都。
壬戌。地震。日夜不止。▼是日。車駕還恭仁宮。以參議從四位下紀朝臣麻路爲甲賀宮留守。
癸亥。地震。」車駕到恭仁京泉橋。于時。百姓遥望車駕拜謁道左。共稱万歳。▼是日。到恭仁宮。
甲子。地震。」遣右大弁從四位下紀朝臣飯麻呂。掃除平城宮。時諸寺衆僧率淨人童子等。爭來會集。百姓亦盡出。里無居人。以時當農要。慰勞而還。
乙丑。地震。」於大安。藥師。元興。興福四寺。限三七日令讀大集經。」自四月不雨。不得種藝。因以奉幣諸國神社祈雨焉。
丙寅。地震。」發近江國民一千人令滅甲賀宮邊山火。
丁夘。地震。」讀大般若經於平城宮。▼是日。恭仁京市人徙於平城。曉夜爭行相接無絶。
戊辰。奉幣帛於諸陵。」是時甲賀宮空而無人。盜賊充斥。火亦未滅。仍遣諸司及衛門衛士等令収官物。▼是日。行幸平城。以中宮院爲御在所。舊皇后宮爲宮寺也。諸司百官各歸本曹。
癸酉。地震。
乙亥。地震。天皇親臨松林倉廩。賜陪從人等穀有差。
壬午。制。无位皇親給春秋服者。自今已後。上日不滿一百■不在給例。〈計上日七十給春夏服。秋冬亦如之。〉但給乳母王不在此限。又據格。承嫡王者直得王名。不在給服之限。
是月。地震異常。往々■裂。水泉涌出。
六月庚寅。遣左衛士督從四位下佐伯宿祢淨麻呂。奉幣帛于伊勢太神宮。
辛夘。復置大宰府。以從四位下石川朝臣加美爲大貳。從五位上多治比眞人牛養。外從五位下大伴宿祢三中並爲少貳。
庚子。筑前國宗形郡大領外從八位上宗形朝臣与呂志授外從五位下。▼是日。樹宮門之大楯。
秋七月庚申。遣使祈雨焉。
壬申。地震。
癸酉。地震。
戊寅。典侍從四位上大宅朝臣諸姉卒。
八月己丑。給大宰府管内諸司印十二面。
甲午。從五位下中臣熊凝朝臣五百嶋除中臣爲熊凝朝臣。
庚子。設無遮大會於大安殿焉。
己酉。地震。
壬子。正三位山形女王薨。淨廣壹高市皇子之女也。
癸丑。行幸難波宮。以中納言從三位巨勢朝臣奈弖麻呂。藤原朝臣豊成爲留守。
甲寅。地震。
九月丙辰。地震。