2011年11月9日水曜日

秋篠という土地

癸夘。
少内記正八位上土師宿祢安人等言。
臣等遠祖野見宿祢。造作物象。以代殉人。垂裕後昆。生民頼之。
而其後子孫。動預凶儀。尋念祖業。意不在茲。
是以土師宿祢古人等。前年因居地名。改姓菅原。
當時安人任在遠國。不及預例。
望請。土師之字改爲秋篠。
詔許之。
於是。安人兄弟男女六人賜姓秋篠。


延暦元年(七八二)五月 癸夘(廿一日)。
少内記 正八位上 土師宿祢安人らの 言上するに(曰く)
臣等が遠祖 野見宿祢、物象を造作し、以って殉人に代う。裕ろく後に昆を垂れ、生民之を頼る。
而るに其の後は子孫 動やく凶儀に預れり。尋く祖業を念えば 意は茲に不在るなり。
是を以って 土師宿祢 古人ら  前つ年 居地の名に因って姓を菅原と改めき。
當時 安人 任じて遠國に在り。預例に不及りき。
望み請うらくは。土師之字を改めて秋篠と爲さん、と。
詔して之を許す。
是に 安人 兄弟 男女 六人に秋篠の姓を賜う。


桓武の時代が始まったころ。
土師宿祢古人ら同氏族の者に遅れて安人は改姓を願い出て許された。
土師氏はここに居住地をもとに名乗った菅原と秋篠に別れた。
といっても奈良市にある秋篠の地と菅原の地はほとんど同じ地である。
隣接というより同一と言っていいくらいだ。
そのことは同一の地域に暮らす同じ氏族の分岐が既成事実だったことを示すように思われる。
安人は菅原という姓でもよい筈だろうから。しかし敢えて秋篠姓を願った。
ここに「家」の独立があるのだろう。そこにその「家」の政治的・経済的等の差異がもたらす分岐がみえる。


任地が離れていて「預例に及ばざりき」は口実の類であろう。
古人たちの家が猟姓運動に成功したとき彼の家は置き去りになった。
というより同姓の古人たちから別扱いされていたのであろう。
確かに任地遠国であれば運動に参加は出来かねたのは確かだとしても。


ここに表れているもう一つの問題は
土師氏という呼称が負のベクトルを帯びるものに変わってしまったことである。
もともと古墳の造営にかかわることは光栄に満ちた家業であったはずであり
それが野見宿祢の伝承とともに土師氏の存在を支えてきた。
しかし王権の継承に関わる重大な事業としての墳丘造営の意義が失われ
律令制の下で土師氏の家業は葬送を凶事とする思想に取り囲まれてしまっていた。
祖先の功業をひそかに誇りつつも家業はすでに技術官から文官へと変わっていた。
改姓の時機はとうに来ていたが、なかなか実現しなかったのであろう。


現在の秋篠の地名が賜姓により生じたかというとそうではないだろう。
宝亀十一年(780年)六月戊戌(五日)に秋篠寺の名が続日本紀にある以上、その土地の名を姓としたと考えるべきだから。


秋篠寺は林に囲まれたような静かな寺である。
秋篠宮も自らの呼称の由来を尋ねて来訪している。
伎芸天の周りに漂う視えない音楽を感じられる立ち位置を
探して見つけた日を懐かしく思い出す。

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