2011年9月27日火曜日

白猪屯倉と白猪史胆津 船史王辰爾の周辺

三年冬十月戊子朔丙申 遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。
戊戌 詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。


遣蘇我馬子大臣 於吉備国 増益白猪屯倉与田部 即 以田部名籍 授于白猪史胆津。
蘇我馬子大臣を 吉備国に遣して 白猪屯倉と田部を 増益す。即ち 田部の名籍を以て 白猪史胆津に授く。


記事の内容は蘇我馬子と白猪史胆津を吉備の国の白猪屯倉に派遣したが、それはそこにある田部を「名籍」を使って増益するのが狙いだったというのだ。
これを記録としてでなく伝承としてとらえれば、
取り仕切った責任者は蘇我氏の馬子、執行責任者は帰化人の白猪史の胆津。
増益の手段は「名籍」。これは田籍を意味するのだろう。
計測と記帳による農産管理。マネジメントが導入されたのであり、文字の役割が拡大されたことでもある。
土木治水のことも含まれていよう。


白猪屯倉のもつ意味は政治的経済的軍事的拠点であろうが、そこを帰化人技術官僚を握った新興の蘇我氏が掌握したことをも示しているのだろうか。


この記事は大阪平野の河内との関連でもまた出てくるはずだ、記憶違いでなければ。


同じ頃に
詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。
詔して、船の史(ふひと)王辰爾の弟、牛に姓(かばね)を津史(つのふひと)と賜ふ。


賜姓は事実かどうかは不明だが、「王」氏が「船首の王」氏となり「津史」氏という職務に合致した称号を得たことは上記の白猪史と並び文書を軸にマネジメントする事務が必須とされる状況を示しているだろう。
出土した墓誌銘に「船首王後」とあり、船首(ふねのおびと)の「王後」と読んだのだろう。


白猪史は王辰爾の兄である王味沙が初めとされ、胆津はその子である。
王辰爾は船史、兄の王味沙の子、胆津は白猪史、弟の王牛(?)は津史。一族が経済の根幹の事務についている。
この前後する二つの記事を繋ぐのは帰化人氏族王氏である。どちらも同じ家伝から採られているとみてよい。


王辰爾については有名な伝承がある。
敏達元年夏五月紀
丙 辰 天皇執高麗表疏 授於大臣 召聚諸史令読解之 是時諸史於三日内皆不能読 爰有船史祖王辰爾 能奉読釈 由是 天皇与大臣倶為讃美曰 勤乎辰爾 懿哉 辰爾 汝若不愛於学誰 能読解 宜従今始近侍殿中 既而詔東西諸史曰 汝等所習之業何故不就汝等雖衆不及辰爾 又高麗上表疏書于烏羽 字随羽黒既無識者 辰爾乃蒸羽於飯気以帛印 羽 悉写其字 朝庭悉之異

2011年9月3日土曜日

続日本紀巻第一から新期講読始まる

文武元年(六九七)八月癸未。
以藤原朝臣宮子娘為夫人。紀朝臣竈門娘。石川朝臣刀子娘為妃。


八月廿日。藤原朝臣宮子娘を以て夫人と為す。紀朝臣竈門娘、石川朝臣刀子娘は妃と為す。
「娘」はどう読むのか。 竈門はカマドと読むのだろう。刀子は?「トウス」ではあるまい。


文武元年(六九七)八月壬辰。
賜王親及五位已上食封各有差。


八月廿九日。王親及び五位已上に食封を賜ること各々差有り。
食封の記事である。


文武元年(六九七)九月丙申。
京人大神大網造百足家生嘉稲。近江国献白鼈。丹波国献白鹿。


九月三日。京の人、大神大網造(おおみわのおおよさみのみやつこ?)百足が家に嘉稲生ず。
近江国より白鼈を献ず。丹波国より白鹿を献ず。


文武元年(六九七)九月壬寅。
賜勤大壱丸部臣君手直広壱。壬申之功臣也。


勤大壱丸部臣君手に直広壱を賜う。壬申の功臣なり。


文武元年(六九七)冬十月壬午。
陸奥蝦夷貢方物。


陸奥の蝦夷、方物を貢す。


文武元年(六九七)十月辛卯。
新羅使一吉飡金弼徳。副使奈麻金任想等来朝。


新羅使、一吉飡の金弼徳。副使、奈麻の金任想たち来朝す。


文武元年(六九七)十一月癸卯。
遣務広肆坂本朝臣鹿田。進大壱大倭忌寸五百足於陸路。務広肆土師宿禰大麻呂。進広参習宜連諸国於海路。以迎新羅使于筑紫。


務広肆の坂本朝臣鹿田。進大壱の大倭忌寸五百足を陸路より務広肆の土師宿禰大麻呂。進広参の習宜連諸国を海路より遣わして新羅使を筑紫に迎えしむ。


文武元年(六九七)十二月庚辰。
賜越後蝦狄物。各有差。


越後の蝦狄に物を賜うこと各差あり。