2011年7月12日火曜日

古代の典籍の史料

此府人物殷繁天下之一都會也。子弟之徒學者稍衆…
巻卅 神護景雲三年十月十日 甲辰。 西暦七六九年


從五位上奈癸王爲正親正。


大宰府言。此府人物殷繁。天下之一都會也。子弟之徒。學者稍衆。而府庫但蓄五經。未有三史正本。渉獵之人。其道不廣。伏乞。列代諸史。各給一本。傳習管内。以興學業。詔賜史記。漢書。後漢書。三國志。晋書各一部。


讃岐國香川郡人秦勝倉下等五十二人賜姓秦原公。




從五位上、奈癸王を正親の正と爲す。


大宰府言す。此の府は人物殷繁にして天下之一都會也。子弟之徒は學べる者稍く衆し。而るに府庫は但だ五經を蓄うるのみ。未だ三史の正本を有さず。渉獵せる人、其の道廣からず。伏して乞う。列代の諸史各々一本を給わらば、管内に傳習して以って學業を興すべし。詔して史記、漢書、後漢書、三國志、晋書、各一部を賜う。


讃岐國香川郡の人、秦勝倉下(はたのすぐりくらじ)等五十二人に秦原公の姓を賜う。



天平宝字四年(七六〇)正月十六日    從五位下奈癸王爲内礼正。
神護景雲三年(七六九)十月十日     從五位上奈癸王爲正親正。
宝亀元年(七七〇)八月四日        從五位上奈癸王爲作山陵司。
宝亀二年(七七一)閏三月一日       正五位下奈癸王爲伯耆守。
宝亀二年(七七一)十一月廿五日     正五位下奈癸王正五位上。
宝亀三年(七七二)七月九日        正五位上奈癸王等。監護喪事。
宝亀四年(七七三)正月己巳        授正五位上奈癸王從四位下。
奈癸王は作山陵司と監護喪事と二度葬送儀礼に関与しているが
伯耆の守以外の官職の記事がみえない。
天平宝字元年(七五七)七月庚戌《四》 賀茂角足請高麗福信。奈貴王。
坂上苅田麻呂。巨勢苗麻呂。牡鹿嶋足。 … 於是。一皆下獄。
天平宝字八年(七六四)正月乙巳《己亥朔七》 從五位下奈貴王從五位上。
神護景雲元年(七六七)二月戊申《廿八》 從五位上奈貴王爲大膳大夫。
宝亀九年(七七八)二月乙酉《八》 侍從從四位下奈貴王卒。


奈貴王は奈癸王と同一人物らしい。とすると奈良麻呂の「乱」に連座していたことになる。だが参加したとは言えない程度の関わりだったのだろう。卒伝はない。伯耆国や石見に関わった官職以外は内向きの仕事をしている。



大宰府言す。此の府は人物殷繁にして天下之一都會也。子弟之徒は學べる者稍く衆し。而るに府庫は但だ五經を蓄うるのみ。未だ三史の正本を有さず。渉獵せる人、其の道廣からず。伏して乞う。列代の諸史各々一本を給わらば、管内に傳習して以って學業を興すべし。詔して史記、漢書、後漢書、三國志、晋書、各一部を賜う。


当時に史記、漢書、後漢書、三國志、晋書が存在したことが分かる。また大宰府内の人々が五経に加えて史書を学ぶことに熱心であったことが分かる。外国との接点の役目も負っていた大宰府の官人層は子弟にしっかりとした教育を与えることを重視していたのだろう。



讃岐國香川郡の人、秦勝倉下(はたのすぐりくらじ)等五十二人に秦原公の姓を賜う。


広範囲に分布する秦氏のもとに居た勝で秦勝という人々が秦原公という姓を許された記事。